Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

『Inscryption』代替現実ゲームという世界観の破壊

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先日『The HEX』をプレイして『Inscryption』への違和感が言語化されたのでここに残す。『The HEX』は『Inscryption』と同じDaniel Mullins Gamesが開発した作品で、『Inscryption』の前作にあたる。

 

※この記事には『Inscryption』のネタバレ、『The HEX』の軽微なネタバレが含まれます。

 

『The HEX』はホテルに集った様々なジャンルのキャラクターたちが繰り広げる群像劇だ。プレイヤーは各キャラクターの出身のゲームを追体験することになる。ネタバレになるのでこれ以上のことは省略するが、最後には普通のゲームと同様にゲームの中で作品の結末が示される、『Inscryption』とは違って。

 

 

『Inscryption』をプレイした人ならわかるように、あのゲームはゲーム内では完結しない。多くの伏線と隠し要素によって縦横無尽に存在する範囲を広げ、最後には現実世界にまで手を伸ばしてしまう。これが私には不満なのだ。しっかり結末を見届けた『The HEX』を通してこの不満や違和感が噴出した。

 

それではなぜゲームが現実に侵食してくるのがそれほど不満に感じるのだろうか。Daniel Mullins Gamesは上記した作品のほかに『Pony Island』など、第4の壁を超えるような作品を続けて開発している。これらの作品と『Inscryption』とでは何が異なるのだろうか。

 

双方向性の欠如

一つは目の前にあるPCではゲームが完結しないという点があげられる。『The HEX』においては、ゲームプレイの中で突如として現実の要素が登場する。ゲーム内の演出としてSteamのフレンドだったり、レビューだったりが登場するのだ。

 

 

これは確かにゲームから現実への浸食に当たる。しかし、その当のゲームにアクセスするためには現実に存在するPCが必要であるということも、また確かであるといえる。つまり、ゲームと現実の双方向性が確保されているということができる。どちらが上でどちらが下という区別はなく、それが成り立つためにはどちらも同時に必要であるという状態が実現されている。

 

翻って『Inscryption』を見てみるとこれは一般的に言うARG(代替現実ゲーム)の様相を呈している。ゲーム内やPCのフォルダ内に残された手掛かりをもとに、現実の場所や物を探り当てるという具合だ。要はPCを離れて現実に繰り出す必要があるのだ。これではゲームは手掛かりという二次的なものに成り下がり、目指されるべきものは現実の世界にあることになってしまう。ゲームと現実とのインタラクティブは完全に失われてしまう。

 

 

 

現実世界への越境の失敗

代替現実ゲームの様相を呈する『Inscryption』は今までの作品と同様に、ゲームの世界から現実の世界へと越境してきているといえる。しかし、前段で述べたようにそれはPCを離れてプレイヤーに現実の世界と対峙させる、という方法をとっている。

 

 

ここで一つの疑問が生じる。プレイヤーがそこで対峙した「現実の世界」とは本当に『Inscryption』内で展開された「現実の世界」と同じものなのだろうか?

 

『Inscryption』ではたびたび実写映像が登場する。ゲームの謎を解くことでその映像がどうやら「私たちの世界」とつながっていることが示唆され、プレイヤーの代替現実ゲームが始まるという寸法だ。

 

 

だが『Inscryption』の映像で提示される「私たちの世界」というのはどこまでもフェイクでありフィクションであることは、私たちが一番よく知っている。謎のゲーム会社は存在しないし、その手先が『Inscryption』について問い合わせたYoutuberを撃つ事件も存在していない。否が応でもこの事実に気が付いてしまう。

 

『Inscryption』が代替現実ゲームを展開したその瞬間から『Inscryption』の世界と、私たちの世界は不完全な形で重なり、その不完全さのせいで『Inscryption』の世界はロールプレイを強いられるフェイクの世界に成り下がってしまうのだ。

 

もし『Inscryption』の現実への越境がPCの中で完結するものであったならば、『Inscryption』の世界が壊れることはなかった。私たちの「現実の世界」とは異なる、もう一つの「現実の世界」として何の矛盾もなく成り立って行けたはずだったのだ。

 

終わりに

以上が『The HEX』をプレイすることで言語化に至った『Inscryption』への不満点であった。私は『Inscryption』の世界観が好きだっただけに、代替現実ゲームという形での現実への越境の結果、この世界観がフィクションに没したのが悔しかった。ビデオゲームから代替現実ゲームへと展開するという(多分)前代未聞の試みを、高いクオリティで実現したことは素晴らしく、称賛されるべきものだとは思う。だがその試みによって失われたものとは何だったのか、と考えることもまた必要だと思う。