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Sam Barlow『Immortality』における神と、黒沢 清『降霊』における霊の交点

※この記事には『Immortality』のネタバレが含まれます。

 

この記事では前回の記事では展開しきれなかった『Immortality』と『降霊』という二つの作品の超常的なものに対するまなざしについて書いていく。

 

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『降霊』における霊

まず初めに黒沢清監督の『降霊』(1999制作)における霊について述べていきたい。この作品において霊の存在は普通のホラー作品とは一線を画す方法で映されている。その特異な点とはカメラがとらえる視線の”元”が明示されている、というものだ。

 

普通のホラー作品において幽霊やモンスターといった存在は作中の人物が認識せずとも画面に映る。モンスターが観客にしか見えないように描写されるということがままあるのだ。こちらを向く役者の後ろをモンスターが通り過ぎる、というのがその典型的な例だ。これはカメラがキャラクターの視点を借りるのではなく、客観的な観客の視点を取る、ということを意味する。

 

『降霊』の画像は怖すぎたのでここでは紹介しない。

 

一方で『降霊』は普通のホラー作品と真逆の演出をとる。というのも『降霊』の霊は登場人物がその姿をはっきりと認識するときに限って画面にそのおぼろげな姿を見せるのだ。霊能力者、そしてその夫の視線の先にのみ霊はその姿を見せる。つまり『降霊』における霊とは登場人物の主観の中にしか現れないのだ。

 

この作品は「見える人」から作中の霊のたたずまいを「本物に近い」と評されることから、(演出は変わっているものの)霊の存在を肯定する普通のホラー作品として受容されている。しかし、前述したように霊が主観性の中でしかスクリーンに映らないことを考慮するのなら、「霊など実際は存在せず、個人の心理状態の中で生み出される」と主張する作品と考えることもできる。*1

 

肝心なのは『降霊』における霊は、人間のまなざしという極めて個人的で主観的な要素が媒介しなければ存在しえないという点だ。

 

『Immortality』における神

一方で『Immortality』における「この存在」はどうだろうか。「この存在」は作中で不死であること、はるか昔から存在していたことが分かる。「この存在」は一見『降霊』の幽霊とは違って誰の目線も必要としない、それこそ神のような存在のように見える。

 

 

しかし、ゲームを進めることによって「この存在」は不死ではなく、さらに「ある方法」でよみがえることが明かされる。「この存在」は刺されても、首を絞められても復活するが、炎に体を焼かれれば死んでしまう。しかし、「死に際を映した映像を人間に見せる」ことによってその人間を自身の依り代として復活することができる。

 

つまり、神のような存在に見える「この存在」も実は『降霊』の霊と同じように、永遠に存在するために「人間の視線」を必要とするのだ。

 

 

『降霊』の霊、『Immortality』の神、どちらも超常的な存在であるのにもかかわらず、自身の存在を保つためには人間の目線という卑小な現象を必要とする。この符合は完全に偶然の産物だが、そこには超常的な存在をストレートに描写しない、という両作品の態度がある。

 

この態度を哲学的な立場に換言するとしよう。そうすると超常的な存在を無批判に受け入れる態度を形而上学の立場*2、『降霊』や『Immortality』のように批判的に受け止める態度を現象学(あるいはポストモダン)の立場ということができるだろう。

 

もう少し詳しく書くと形而上学では客観的な真理の存在を自明なものとして哲学的な探求を行う。客観的な真理とは極端なことを言ってしまえば人間が存在しない世界にも変わらず存在するものと考えられる。一方で、現象学は人間の主観が存在しなければ客観的な真理は存在しないと考える。客観があって主観があるのではなく、主観という土台があって初めて客観が成立しうると考える。『降霊』の霊や『Immortality』の「この存在」が人間の視線を必要とするように現象学は主観を重視するのだ。

 

どちらも現代の作品なのだから哲学的に新しい立場につくのは当たり前だ、と思われるかもしれないが、両作品とも古い立場を批判的に描写することに自覚的であるという点で、哲学の批判精神に適う稀有な作品であり、だからこそ時代的に隔たった両作品をこの記事で結びつけることも可能となった。

*1:この考察については除霊に来たお坊さんの話(「地獄はあると思えばある、ないと思えばない」や)ラストの降霊失敗シーンを観れば、それほど突飛なものではないだろう。

*2:ここでは形而上学の立場を無批判な古い思想として紹介してしまったが、個人的には相対主義に逃げることのない形而上学的立場は、哲学をするにあたって捨ててはいけない非常に重要な態度の一つだと考えている。