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『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』と『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』のタイトルの混乱について

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』では牛乳を買いに「外」に出て行った彼女ですが、続編である『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』では自宅という「内」に帰る。

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』では統合失調症のような症状に悩まされる彼女によって、自分自身の論理の中で展開する世界観が語られた。いわば彼女の状況という表面が(内面とともにではあるが)語られたわけだ。一方で『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』では、彼女がどのようにして今の状況に陥ったのかという原因、つまりは内面の奥のほうにあるものが語られる。

 

ここには「inside」と「outside」というタイトルと内容の奇妙な食い違いがある。つまりタイトルが逆ではないかという話だ。確かに「inside」は内面で会話をするビジュアルノベル風を装い、「outside」は部屋という自分から切り離された外部をポイント&クリック風に探索するという意味で適切かもしれない。しかし、この違和感はぬぐえない。

 

この「inside」と「outside」の混乱ともいえる事態は彼女の自己認識に基づいているのではないかと考えてみる。そもそも彼女が精神的な疾患に悩まされているのは、父親の投身自殺が原因だ。他者の死が自分の生に影響を及ぼすのは、つまり他者の生が自分の生に一部同化していたことを意味する。親しい人が亡くなって「胸にぽっかり穴があいたよう」な気分といえば一般的だろうか。穴の部分には他者がいたわけだ。以上のように仮定すると他者の死は自身の一部の死を意味する。

 

他者が自身の生の一部を担うという事実は、精神疾患であろうと無かろうと変わらない。ただ彼女は父の喪失によってその事実をより強く実感し、自身の外と内の混乱に陥ったのではないだろうか。

 

この考察は『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』の三つのシーンに根拠を求めている。

 

一つは彼女がお使いの帰りに「1マイルのアイスクリームになった気分」と語るシーン。自己と世界の境界が融解して、混ざり合う感覚が分かるようなわからない論理で説明される。

先のシーンが自分から世界の方向への混ざりとすれば、世界が「私に合わせてくれる」という上画像のシーンは、世界から自分という先ほどとは逆方向のシーンだ。彼女にとって世界は自己の外部ではなく、境界なく相互にかかわりあうものなのだ。

 

そして、3つ目のシーン。「自分と世界が境界なくかかわりあう」という世界観がダイレクトに、そして物理的に表れたのがこのシーンだと思われる。

パパの一部を自身に持った彼女が、世界と混ざり合ったパパを見て自己の「inside」と「outside」の認識に混乱が生じるのは無理がないのではないだろうか。

 

以上が『milk』シリーズのタイトルと内容の齟齬に関する考察だった。