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『Kentucky Route Zero』 旅という生まれなおしと不可逆性

『Kentucky Route Zero』は配達員のコンウェイとなってゼロ号線を目指すアドベンチャーゲームだ。自分にとってこの作品は『Immortality』ぶりに食らった作品だった。『Immortality』が映像と他者のまなざしを通じて自己を確立する外向きの作品だとしたら、『Kentucky Route Zero』は旅を通じて自己を捉えなおす内向きの作品ということができる。

 

この記事では「旅」をキーワードに『Kentucky Route Zero』を考えていきたい。ネタバレは含まれるが、プレイする分には知っていても何の問題もないと個人的には思う。

 

住む土地を離れて他の土地に行くことを「旅」という。遡れば旅は狩猟を目的とするものから、時代を進めて宗教的な目的を持つ「巡礼」の旅へと変化していった。『Kentucky Route Zero』という作品はまさにこの巡礼の旅そのものではないか、というのが私がこの作品をプレイして感じたことだ。


とはいってもユダヤ教キリスト教といった具体的な宗教の巡礼というわけではない。ここでは旅という事象そのものに儀式的な要素を見、それをある種のイニシエーションであると考えたい。

 

イニシエーションとは通過儀礼のことで人生の変化の節目に行われる儀式のことだ。成人式は現代に残る通過儀礼の一つと言えるだろう。法律上の成人は18歳だが、成人式という儀式を通して人は大人になった、という自己・他者受容を得るという側面がある。

 

子供から大人になるという経験は過去の自分を殺し、新たな自分に生まれなおすという意味を持つ。それは通過儀礼の危険性というものにもっとも直接的に表れている。古くからある通過儀礼には大けがの恐れや、時には死に繋がる危険性を孕むものが少なくない。旅という経験もまた危険に満ちている。

 

この「危険性」と「生まれなおしの機会」を合わせて考えることによって、旅そのものに通過儀礼としての役割を見ることができる。

 

『Kentucky Route Zero』には通過儀礼としての側面が多く表れている。それは旅の道中に主人公が危険な目にあい肉体を変化させることや、儀式的・呪術的な厳かさに則った移動方法からも見て取れる。それはあたかも通過儀礼で傷を負ったものであり、生まれなおしのために決められた手順を踏む儀礼者のようだ。

 

『Kentucky Route Zero』が特異なのはその通過儀礼に近代的な要素と古代の要素が混ぜ合わされるように登場するところだ。抽象的で象徴的な移動システムが出てきたと思えば、官僚的なシステムという現実が目の前に現れる。そうかと思えば巨大なワシが主人公たちを連れ去り、抽象的な移動システムを破る。

PCを燃料に燃える焚火や近代的な施設で働く骸骨など、各モチーフは時代を意識的に越境しようとしている。

 

このような多彩なモチーフを盛り込んだ旅は一つの浸水した村で終わりを迎える。そこでは旅の終わりと新たな始まりが示唆される。旅を通じて生まれなおしても人生は続いていく。そこに希望はあっても絶望はないはずだった。

しかし、生まれなおしによって過去の自分は確かに死んだのだ。自己は生まれなおしたのと同時に死んだ。そして死んでしまえば二度と過去の自分には戻ることはできない。始まりには終わりがあり、終わりには不可逆性があるという客観的で絶対的な事実に押しつぶされそうになった。

神が真に信仰された時代ならこのような絶望感は無かったはずだ。なぜなら生まれなおしとは神に相対することで実現されるのであり、そこに開かれる未来は神という他者が担保していたためだ。しかし、現代に神はいない。そして人類の理性すらも未来を担保してくれない。危険を冒して生まれなおしても、そこには自己しか存在しない。この漠然とした不安こそ『Kentucky Route Zero』で心底味わうものであり、寄る辺ない実存として私たちが置かれた状況であると思うのだ。