Game Mediation

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技術の進歩と世界の意味:『DEATH STRANDING』における総資源化の問題

『DEATH STRANDING』のプレイを開始して3時間ほど経つころ自分の中で「この作品は語るに値するものだ」という確信が湧いてきた。例えばそれは初めてのBTとの接触の場面で感じられた。

 

 

死の不連続性

BTは基本的に目に見えない敵対勢力であり、それらを探知するBBの力がありながらも最初のうちはBTを上手く避けることはできない。BTとの最初の接触は私にとって不可避の失敗との出会いでもあった。

この失敗が私にはうれしかった。多くのゲームにとって失敗はプレイヤーの死という、ゲームの非連続的な体験をあらわにしてしまう避けるべきものであり、だからこそリソースも割かない領域でもある。しかし、『DEATH STRANDING』における失敗は違う。

 

BTという死者に見つかれば、それに続いてプレイヤーの周りには死者の領域が展開され死者の手に引きずり込まれることになる。さらにその領域は広がり「キャッチャー」と呼ばれる狩人が出現する。獅子やクジラなどの形をとるキャッチャーに捕食されることでようやくプレイヤーの死は実現する。この失敗への段階の多さには目を見張るものがある。

さらに驚くべきことにこのプレイヤーの死は従来のゲームオーバーに付きまとう体験の非連続性を回避している。というのもプレイヤーが死ぬことによってそこから新たに蘇りのためのゲームプレイが展開されるからだ。さらにプレイヤーの生還は周りに散らばる荷物や、死者と生者の接触によって起こった爆発によるクレーターという形で死と直接的につながっていることを雄弁に語っている。

 

この文章の意味

以上のようなゲームプレイによって得た数々の感想をここでは断片的に語ろうと思う。それは冒頭に書いたような「この作品は語るに値するものだ」という直感をある意味で文章に起こすことであり、ある意味ではそれに反する行為でもある。

 

というのも「この作品は語るに値するものだ」という直感はストーリーを最後まで見た今になっては完全に間違っていたと考えられるからだ。私は『DEATH STRANDING』に散りばめられた数々のエッセンスをもとにこの直感を得ていた。

 

生物の座礁という現象や、自然あるいはBT、still motherに象徴される人間それ自体の資源化、火葬のレジャー化など、嫌でも技術と人間との関わりを思わせる要素によってこの作品が切り込んでいくのだと思っていた。しかし、それらはSFという架空世界と人間賛歌に吸収され単なるフレーバーとして扱われていた。あまりに無邪気なそれらの表象の消化に落胆してしまった。『DEATH STRANDING』をきっかけに読んだ書籍の知識をこの作品が受け止められるとは到底思えなかった。

 

realsound.jp

 

しかし、そんな落胆の中でこのような批評の存在も知り、全く私が思いもしなかった切り口もあるのだと知るに至った。そこで『DEATH STRANDING』が「何を実現しなかったのか」ということを知るためにもこの作品に対する、感想やレビュー、そして「思い出」を書くに至った。感想や思い出は私がこのブログで10年以上続けて、最近辞めていたことだった。それは作品の断片を主観的に論じているのであって、そこで主眼が置かれる「楽しい」という感情の発露に意味が(意義が、意志が、真理が)あるとは到底思えなくなってしまったからだ。しかし、それは単にジャンルが違うのだと学んだ。

 

ここで学んだ批評とレビューの1つの違いというのは前者が1つの切り口から作品全体を捉えるのに対して、後者はつどのゲームプレイという断片化した体験を評価するというものだ。また切り口を設定せずに作品全体を捉えようと試みるものは情報に過ぎない。おそらくこの定義の穴は多いと思うがこの捉え方が今の私には腑に落ちたという事を(どうせ個人ブログなのだし)蛇足ながら書いておくことにした。そしてそういう意味でこの文章は批評ではないのだと思う。

 

「歩いていい」という赦しの感覚

続いても従来のゲームとの比較になってしまうが、『DEATH STRANDING』において歩くこととは荷物や自身の身を保全することにつながる。走れば体力や電力というリソースは削れ、転倒などしてしまえば血液を失うだけでなく背負っている荷物を傷つけてしまう。「リスクを避けるためにも」という名目でプレイヤーは歩くことが許される。

 

人間にとって走行とは本来不自然な動きであると言える。意図や目的に緊急性が付与されることによって初めて走行という動きは自然となる。しかし、従来のゲームにおいて歩くことは時間のロスとしてしか捉えられない。ゲームにおいて歩くこととはノーリスク(あるいはローリスク)で無駄を省く機会を投げ捨てる行為なのであり、対人ゲームという1つの極に置いて見ればトロール行為であるとさえ理解される。

 

そんな本来自然であり、ゲームにおいては不自然である歩くという行為が『DEATH STRANDING』では許される。この効用はリスクの回避という消極的で表層的なものに収まらない。数々のオブジェクト、誰か(someone)の歩みの軌跡、地形など、走行によって見逃されるるものをしっかりと認識することができる。それはゲームを構成するものの理解であり、この世界の理解へとつながっていく。

 

世界の一様な理解

上の画像において地形は3つのステータスに応じて図形が付与されている。青の点は「歩きやすい」、黄色い点は「要注意」、赤いバツは「歩くのに向いていない」ということを意味する。センサーを飛ばせば世界はこの3つの指標のうちのいずれかに分類される。

 

これは世界そのものに意味を付与させる拡張であると同時に、世界の可能性を失わせる決定と捉えることもできる。ゲームにおけるオブジェクトの大半は走ることで通り過ぎる「何でもない」ものであり、戦闘という契機によって一時的に遮蔽物や武器(爆発物など)として意味を付与されるにすぎない。

 

しかし、『DEATH STRANDING』は世界のすべてを「人間の歩行のしやすさ」という基準で評価することによって恒常的な意味を付与することに成功している。

 

一方でこれは私が危惧し、『DEATH STRANDING』に回答を求めていた(そして肩透かしを食らった)世界の資源化にほかならない。例えばハイデガーによると「人が死んだので木を切り倒し、棺桶を作る」、ここに資源という概念はない。それは「人が死んだ」という環境の変化と、それに伴って求められる人間という主体の反応だからだ。ここにはある種の双方向性がある。

 

しかし、「人が死んだときのために木を大量に切り、棺桶をあらかじめ作っておく」。これは資源という概念が支配していると言える。ここには「あらかじめ」という在庫の概念と、前者のように1人の死者に1つの棺桶という閉じた対応関係を成立させる気のない資本主義の論理が渦巻いている。資源という概念はこの2つの要素によってすべてを資源のうちに飲み込んでいく。棺桶の例に沿えば木だけではなく、死者も、棺桶も「より多くをさばく」という目的に沿う在庫となり、算定可能*1となる資源に過ぎない。

『DEATH STRANDING』における世界の「人間の歩行のしやすさ」マップ化もこの論理に沿っている。それは「あらかじめ」「踏破するために」という資源の論理に沿っているのであり、それに沿わない意味をそぎ落とす行為だからだ。

 

意味のそぎ落としに抗い、新たに意味を付与しうる「歩く」という行為も、荷物の状態や血液の残量など徹頭徹尾算定可能な、破壊を「あらかじめ」予見するものによって動機を与えられている。このすべてに絡みついてくる抗いがたい資源という概念を『DEATH STRANDING』は振るい切れていない。

あの世の物質さえ算定可能とする

国道と進歩の道のり

ゲームを進めるとカイラル通信をつないだ土地(=踏破した土地)で国道を建設することができるようになる。ここにきて「歩く」ことは許されないものになり、世界は「通り過ぎられるもの」に変貌する。なぜなら道路と車を使った移動は歩くことよりもはるかに安全なものであり、リスクの回避という歩くことの特権性は奪われてしまうからだ。

 

これを評価できるのは技術の進歩による世界の意味の忘却を直に体験できるからだ。最初から世界に意味がないのではなく、意味あるものが技術の発展によって忘れられていくという過程を体験できるところに『DEATH STRANDING』のゲームプレイ特有の意味があった。また踏破していない地域では国道を建設することができない、という縛りは技術の進歩の反復を体験させるものであり、既存の技術進歩を常に与えられるわけではない。だが、技術の進歩を手放しに歓迎する牧歌的な姿勢は一貫しており、先ほどのようなすべての存在の資源化に対する、批判の欠如に表れていると言える。

 

優れたビジュアル

ここでは『DEATH STRANDING』の優れたビジュアルをスクリーンショットを淡々と張ることで伝えたい。ビジュアルにおいて私が語りえることはほとんどないからだ。ただ同じオブジェクトやモーションの反復に耐えうるビジュアルを構築する能力の高さは『DEATH STRANDING』をプレイして確かに感じたことだった。それらが確固とした物語によって意味の分かる形で消化されていったのがもったいないくらいだった。意味が明確であるという事は反面、受け手にとっては貧しいものに感じられてしまう。

 

労働の成果の可視化

『DEATH STRANDING』の世界には「いいね」という機能がある。これはインタビューによれば「無償のもの」であり武器や装備に変更することもできない、加算され続ける数値である。しかし、依頼を達成したときに与えられる「いいね」は実質的に達成した依頼の質の評価の基準となるものであり、自分の行為がいかに世界に貢献したのかを客観的・直接的に知ることができるものでもある。

 

この可視化された達成感がゲームプレイの労働性を上手く覆い隠している。言ってしまえばこのゲームの構造は全体として「お使いクエスト」である、しかし、そこに依頼人の動機という文脈や「いいね」という評価システムによって無機質な労働性を意識させないようにしている。このことはゲームをクリアした後に感じた、これまでゲームで経験したことのなかった強い倦怠感の説明にもなるだろう。プレイヤーは間違いなく労働をしていたのだ。

 

終わりに

以上『DEATH STRANDING』を最後までプレイして印象に残った要素をバラバラに並べてみた。この文章は批評に必要な作品全体を捉える行為への前段階と言えるかもしれない。全体をとらえきれずに批評が成立せず、文章として何も残らなかったら約40時間のゲームプレイ(と関連書の読書)の時間がもったいないと思いここに残すに至った。

*1:これは人類学における徴つきのような概念的なものではなく、数値に置換可能な文字通り算定可能なものである

拒絶のアンチビジュアルノベル 『Class of ‘09』

現代のビジュアルノベルは、どの作品もそれぞれの意味でアンチビジュアルノベルと言う事ができる。長時間プレイを求められない、美少女とデートしない、ミニゲームによる操作可能性がある、など何かしら仮想敵を作ってアンチビジュアルノベルと言う概念は成り立っている。

 

その中でも『Class of ‘09』は美少女として男性を拒絶するという意味で分かりやすくアンチビジュアルノベル/デートシミュだ。この作品はその立場を明確に打ち出している。

 

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限界の自覚と克服 内省装置としての『The Talos Principle 2』

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意味のある失敗や挫折というのは「できない」という事実を受け止めながら、それでも挑戦を続けた先に、自分の限界を見ることで成立する現象だと思う。失敗や挫折はその過程に限界の自覚という新たな発見があるからこそ、意味のある経験として自分自身に刻まれる。*1

 

以上のように意味のある失敗や挫折が稀なものであるとすれば、その克服や乗り越えはさらに類い稀な経験という事ができる。3Dパズルゲームである『The Talos Principle 2』は挫折とその克服というプロセスを幾度も経験できる恐るべき作品だ。

*1:そして挫折にカウントされないものは、執拗な挑戦がないゆえにそもそも「失敗していない」取るに足らないものとして処理される。

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『The Cosmic Wheel Sisterhood』における一回性とゲームにおける変更可能性の衝突 そして自由意志の危機

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