Game Mediation

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『The Cosmic Wheel Sisterhood』における一回性とゲームにおける変更可能性の衝突 そして自由意志の危機

『The Cosmic Wheel Sisterhood』は占いを通じて選択を繰り返し、その選択の影響を楽しむ占いADVだ。この記事では既に多く語られている今作の美点ではなく、構造上の問題点に焦点を当てて語っていきたい。ネタバレが含まれるので未プレイの方はまず自分でプレイすることを推奨する。「選択の先にプレイヤーの物語ができる」という今作の結論を前提とした性質をここでは論じているからだ。

 

『The Cosmic Wheel Sisterhood』はプレイヤーに選択を迫ってくる作品だ。ほかの魔女との会話では誰を支持するのか、どのように政治に参画するのかを問われ、占いでは限られた選択肢の中から占う相手の未来を見る。そしてそれらの選択はゲームにおける現実に文字通り全て反映される。ここまで読んでいる人には自明のことだと思うが、プレイヤーであるフォルトゥーナの占いは実は占いではなく、過去と未来を含む現実の改変だ。

プレイヤーは占いによって占う相手の人生に間接的に影響しているのではなく、占った結果によって世界の前後すべてに直接的に影響を与えているのだ。これが『The Cosmic Wheel Sisterhood』のユニークな点であり、これから論じるプレイヤーの一回性とでもいうような性質を帯びさせる仕掛けだ。

 

フォルトゥーナの占いが現実改変であるという事を知ったプレイヤーは、その後の自身の選択とその結果を自分のゲームプレイによって構築したものとして認識することになる。これは実態としては普通の作品と変わらない分岐なのだが、『The Cosmic Wheel Sisterhood』はその変化の大きさや影響の深さを巧みなテキストでプレイヤーに印象付けてくる。「未来の人類はデータ化され、コンピューターの中で生きていく」という占いを行えば、その選択をしたずいぶん後でその通りの未来が実現されていることが知らされるし、「あなたは魔女を殺すことになる」と占えば「私は魔女を殺しました」と報告を受けることもある。

この作品はプレイヤーの発する一言一句が世界に反映されているという感覚を、文脈を崩すことなくテキストに盛り込むことで巧みに実感させる。このような絶大な影響力を持つプレイヤーの選択が積み重なることで、この作品のゲームプレイにはある稀有な性質を帯びさせることになる。

 

それがゲームの一回性とでも言うべき性質だ。一回性という単語にはおそらく馴染みがないと思うがそのニュアンスは伝わるだろう。『The Cosmic Wheel Sisterhood』になぞらえて言うのなら以下のようになる。

 

「このエンディングは私の選択の積み重ねに起因する、私固有のものであり、たとえゲーム内に他のエンディングが用意されていようが、それを私のものとして受け取ることはできない。私の結末は私が最初に選び取ったものだ」

 

実際に私は自分の最初のゲームプレイでたどり着いたエンディングしか見ていない。1週目を終えた後に、新たにゲームを開始し1週目では取らなかった選択肢を選ぶにつれて「これは私のゲームプレイではない」という感覚になり、ついにはYoutubeで他のエンディングを確認する意欲すら失われてしまった。

 

この感覚自体は否定しようのない尊い現象だと思う。例えば私は『Kentucky Route Zero』について似たような感覚を覚える。こちらは『The Cosmic Wheel Sisterhood』ほど選択の影響力を直接的に感じない作品だが、それでもこれまでの旅路で積み重ねてきた会話が、移動が、行動が最後には見事に結実していき、それを「私の物語」として受け止められたように思う。

棚から落ちる悔悟者

それでは『The Cosmic Wheel Sisterhood』における一回性の感覚の何が問題なのだろうか。それはプレイヤーのゲームプレイによる変更可能性・操作可能性というゲームの性質と正面からぶつかっている点にある。

 

プレイヤーはゲームにおいて選択肢を提示されたとき、その選択がゲームのストーリーを左右することをほぼ無意識的に理解している。しかし、ゲームは期待を裏切ることが多々ある。プレイヤーの選択がその意図と反する結果を起こしたり、違うニュアンスで物事に影響を与えたりする。

 

このプレイヤーの選択に伴う期待と不確定性という要素が『The Cosmic Wheel Sisterhood』においては不可避の決定論に置き換えられている。

 

ここには自由意思に関わる2つの問題点がある。1つは他者(キャラクター)の自由意志の侵害、そしてもう1つは自分自身の自由意志の侵害だ。

 

一般的なゲームにおける選択はその世界に影響を与える。キャラクターの生死を左右したり、関係性を変更させたりする。しかし、それはプレイヤーとゲーム世界との押し合いへし合いのいわば相互作用なのであり、どちらか一方が欠けては成立しえない限定的なものだ。だが『The Cosmic Wheel Sisterhood』におけるプレイヤーの選択は一方的かつ、強制的なものだ。プレイヤーが死ねと言ったのなら、そこに他キャラクターやゲーム世界が抗う余地はない。いや、もっと強い言葉で言ってしまえば自由意志を介して反応する余地すらないのだ。

 

仮に『The Cosmic Wheel Sisterhood』と普通の作品で同じ選択をし、「あるキャラクターが死ぬ」という同じ結果が出力されたとしても、そこには自由意志が介在するか否か、という過程の違いが存在する。『The Cosmic Wheel Sisterhood』における選択は「プレイヤーが選択したことが過去/未来を問わず真実となる」という因果関係を無視したものであり、そこに選択の影響を受ける他者の自由意志の介在する余地は微塵もないのだ。

 

次に選択をしたプレイヤー自身の自由意志の侵害に話を移す。『The Cosmic Wheel Sisterhood』においてプレイヤーは自分の望むように世界を作り変え、その選択もプレイヤー次第であるのにもかかわらず、プレイヤーの自由意志が侵害されるとは矛盾するではないか、と考えられるかもしれない。しかし、世界がプレイヤーの選択によって縛られるのと同じで、プレイヤー自身もまた自分の過去の選択に縛られるのだ。

 

力を得るために犠牲にするものは変えられず、死ぬと言ってしまった友人の運命は変えることができない。自分の過去の言葉が今の自分の自由意志を奪うものとなって降りかかってくる。そこに不確定性の裏返しである期待は生まれない。自分が選択肢を握っていたのにもかかわらず、世界に自分が規定されているという決定論的な息苦しさ/虚しさを存分に味わうことになる。

 

以上が私が『The Cosmic Wheel Sisterhood』を全面的に肯定できない理由だ。最初の結末を自分のものとして引き受ける、ゲームの一回性の美しさをこの作品に見ながらも、その結末があまりにも自身の選択に依存しすぎているという自己回帰的な構造に身震いするのだ。望んだカードを引けるわけでないという偶然性すらも決定論的な世界観に飲み込まれるようで怖かった。*1

 

ゲームだけでなく全ての一回性とは自身の自由意志とそれに反応する世界、もしくは他の自由意志との相互作用で紡がれる物語に宿るものだと考えられる。もっとゲーム的に言えば、一回性という性質に必要なのはプレイヤーの介入による操作可能性・変更可能性だろう。だが肝心なのはそれが不確定な「可能性」にとどまるということだ。『The Cosmic Wheel Sisterhood』はゲームという自己の存在形式を自覚し、その形式に則りながらも「可能性」を「確定したもの」に置き換えた点で自己破壊的な産物であると言える。

 

それは多くのプレイヤーを魅了した独創的なものだし、魅力的な作品であったことは否めない。しかし、自由意志の有無についていつもボンヤリと考えながらも、決定的な結論を恐れている私のような人間には存在の基盤を揺さぶるようなこの作品のアプローチは不気味で居心地の悪いものでもあった。

*1:フォルトゥーナは占いによって世界を規定しなおすことができるが、そのためには望むカードを引かなければならない。つまり世界を規定するフォルトゥーナを、さらに規定する世界という存在が仮定されるのだ。そしてその強大さはフォルトゥーナの力が他者の自由意志を奪ったのと同じ構造で、フォルトゥーナの自由意志を奪うのだ。