Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

Portal 私が私を見つめてました

Portal 09172016

本当に今更ながらクリアしました。不評なレビューが3パーセントにも満たないという世間の評価には同意せざるを得ない素晴らしい作品でした。ゲームの概要やら面白さは各所で書き尽くされているであろうから、その点には触れません。

思索の始まり

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この場面はロケットをビームに沿って発射してくるロボットと対峙した場面です。自分の正面と背面の壁にポータルをあけビームがポータルを通っている状態です。ここで僕は疑問を感じた。1本のビームがなぜ3本に見えるのだろう、と。

そしてこの疑問は空間と空間をつなげるだけというポータルガンの性質を揺るがす。1本のビームを3本に変える性質の変化という全く違った機能を見せてしまっているのではないかと。

そもそもポータルガンによって生成されたポータルを通ったビームは当然1本でなければならない。という直感がこの疑問の出発点である。

しかしこの現象の原因は実に単純だ。ビームはポータルの完全な真ん中を通っているわけでなく、2つのポータルは完全に対応した位置に設置されたわけではないという2つの要因から位置のズレが生じているだけなのである。しかし我々の目から見たビームの本数が変わったことには違いないし、その結果ビームの長さという性質が変わったという事実も疑いようがない。

こんなことを言い出すと「ものの性質は環境によって左右されるのだから当然だろう」という反論も出てくると思う。

ビームに即して言えば空間の広がりという環境に対応してビームはその可視範囲(距離)が決定するのだ、という反論だ。広い部屋では長くなり狭い部屋では短くなる。当然のことだ。

では次のSSを見てもらいたい。これは2番目のSSのようにポータルをあけ、体の半分だけをそれに通すという作業によって生まれた視点である。

Port.png


Porta.png

右目はポータルを通らずに見た視点、左目はポータルを通った後の視点を捉え、脳内でそれらが結合されなんとも不可思議な景色を作り出している。しかしこの状態においても「ものの性質は環境によって左右される」という先ほどの反論は生きている。

ポータルガンがいくら離れた場所にポータルを設置しその間を体を半分だけ通し、「右脳は日本、左脳はブラジル」といった状態を作ってもそれは「環境に左右された」にすぎない。何もおかしい個所などないのだ。

最後に、このSSである。私が私を見つめているというフレーズが鏡を見ているのか水面をみているのかという現実的なものなのか、はたまた精神的な意味合いなのかは知らないが、この場合は前者の立場を取るのだろう。

Po.png

しかしこの現象も散々使われた「環境に左右されるから」という論に逆らうことはできない。そうこんな現象は我々が毎朝顔を洗う時に必然的に見てしまう鏡に映った自分となんら性質を異にすることはないのだ、

ポータルガンは「あそこに映っている私は本当に私と言えるのだろうか」等という我々のアイデンティティを脅かすようなことはしない。「私」を含む「もの」は環境に左右されるものなのだから。これで不安はすべてなくなった。

本当にそうだろうか?

確かにこれらの現象が異常ではない(常である)という証明にはなった。しかし逆に考えれば自分が自分を見つめているという薄気味悪い現象が私たちの周りに普遍的に存在しているという事を証明してしまっている。

そう考えるとポータルガンというのは、とてつもなく恐ろしい発明である。程度の違いはあれど環境は私たちを変化させ続ける。普遍性の中に見る異常性。そんな不気味なものを我々に提出してしまったのだから。