Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

洋ゲー(アメリカ)への憧れとその暴走

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AMERICA 歌・作詞・作曲  浜田省吾

We were lookin'for AMERICA

映画の中のアメリカンドリーム

今も AMERICA

あの娘の輝いてた瞳 想い出す Youtubeリンク

1986年の浜田省吾の歌「AMERICA」に如実に現れているとおり日本人は外国とりわけアメリカに対する憧れを今も持ち続けます。それは音楽や映画だけでなくゲームにおいても例外ではありません。憧れはより高次なものへ向けられたものでそれ自体は悪いものではありません。しかしこの憧れがいま変な方向に向き暴走を始めています。これは何もゲームに限ったことではありませんがこの記事ではゲームにおけるものを考えていきます。

アメリカンドリームは「古典的FPS

ゲームにおけるアメリカンドリームはズバリ「古典的FPS」にあります。Wolfenstein、DoomQuakeHalf-Life、…これらの作品(またはCSのような派生)は今もなお、話題に上がりプレイされ続けています。その原始的な暴力性、突き詰められた戦略性、求められる技術力の先にある勝利、人によって評価点は違うものの確かに今まで名前が残るとおり素晴らしいゲームたちです。

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※ここでの“アメリカンドリーム”は冒頭の文脈より“憧がれ”という意味で使わせていただいてます。分かりにくくて申し訳ない。

憧れの暴走

全てはここからおかしくなった、憧れは崇拝へ変わり現代の作品や、あろうことか日本の作品を攻撃し下に見ることで“自分たち”の正当性を主張し始めたのだ。これは一見ゲームハード論争(ゲハ戦争)のようにそれぞれ派閥が生まれているように思えるがそれは違う。この“古典崇拝集団”はほぼ全てのゲーマーに当てはまり無意識的に古典を最上位に置いている。これが許されるのは2chDoomスレで延々とうん10年前のPCを使ってWADをあさっている連中だけだ。201502221614429ff_2015022216160813e.jpg

本当に“古典は”最上位か?

先ほどの理論で進めるとこの記事の読者全員は図らずも“古典崇拝者”だ。さてここで簡単な質問がしたい。本当に“古典的FPS”はあなたにとって憧れるべき素晴らしいものだろうか?近年の作品や日本産の作品は見下されるべきものだろうか?世論ではなく“あなたの”考えが聞きたいのだ。