Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

Hatred論争 ゲーマーが本当に守りたかったものとは

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「僕の名前はノットインポータント(酷い名前を付けられたもんだ)、インポータントなのは僕が何を成すかだ」

主人公がそう語ったのはHatredが初お披露目されたトレイラーでのことだった。当時は多くのゲーマーをその暴力性で唸らせたものだ。SteamのGreen Lightから削除された際にはゲーマー達から大変な支持を受け遂には“ゲイブ神の寛大さ”という問答無用の権力によって復活した。

ゲーマーからも、そして(表面上)steamさえも味方につけたHatredだったが内容が微妙であったと明かされた今では冒頭のようにチープな訳がピッタリである「ダサイやつ」的な存在になってしまった。DLCの発表があってもかつての勢いは取り戻せていない。そうHatredは一度絶大な支持を受けたゲーマー達から見捨てられたのだ。

僕らが守ったのはHatredじゃなかったんだ

なぜHatredは見捨てられたのか。ゲームの出来が微妙であるとか期待はずれであるとかいった類の理由ではない。それは“ゲーマーがそもそもHatred自体を支持していたわけではない”からだ。

では彼らはHatredの支持の向こう側に何を見ていたのだろう。ずばりそれは表現の自由というグラフィック技術が進化し続ける上で必然的にぶち当たる問題だ。Hatredの表現が世間的にNGであるとされてしまえば今後出るであろうゴア表現の規制にも影響してしまう。という日本の捕鯨問題まんまの理屈である。商業的な成功の証明と言う意味でもゲーマーの購買意欲は普通では考えられないほど高かった。

そんな訳でHatredは勝手に(作者も意図はしていただろうが)持ち上げられ勝手に地面に叩きつけられた何とも不憫な作品である。正に冒頭の訳まんまの「重要なのは俺(Hatred)自身ではなく何をなしたか(表現の自由の主張)」であったのだ。