1つの興味深いスレッドがゲーマーの間で話題になっている。
Why all this violence?! - Alternatives to violence in video games?
スレッド主はFallout 4の広大な世界やクラフトシステム、Bioshockのラプチャーという素晴らしい舞台とモラルや人間の性をテーマとしたストーリーを非常に高く評価している。しかし、その素晴らしい多様性のある魅力の一方、ゲームプレイ自体には馬鹿の一つ覚えみたいに暴力が存在していることを憂いている。
確かにそう言われてみればゲームといえば「敵を倒す、ということがゲームの前提である」と言われても特に違和感はない程にゲームに暴力性は浸透している。
スコアを稼ぐこと、前に進むこと、ゲームを終わらせること、これら全ての行為はほとんどの場合「敵を倒す」ということで完成する。
スレッド主はこの暴力性に変わる存在は分からないが、どうにかならないものかと述べている。さらにスレッドタイトルにもなっている「Why」とも疑問を呈している。それに対する僕の考えを述べていく。
ゲームの本質
そもそもゲームというのは映画や本と違い、そのプレイヤーの積極的な、能動的な行為が加えられて初めて成立するものだ。ただゲームを起動して眺めているだけでは前に進まない。そういった性質を持っているのだ。
それはゲームをプレイする“意味”にもつながってくる。能動的な行為によって何かを得たいからゲームをプレイする。むしろ、そうすることでしか得ることができないからそうする。
先ほど「能動的な行為によって何かを得たいからゲームをプレイする」と書いたがその行為が現実の世界で行えるものならゲームでする必要はないのだ。そして最も面白く自然に取り入れられる非日常「敵を倒す」が導入される。
そして、そもそも暴力が必要のない世界というのは限りなく僕たちが生きる日常に近い。そんな自分の日常を追体験することで何か特別なものが多様性のあるものが得られるだろうか。
ゲームの定義には能動的な行為が必要である。
ゲームにおける能動的な行為=暴力。
これを踏まえた上で僕の答えは逆説的なようだが「それがゲームだから」だ。