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哲学者大戦争としての「NieR:Automata」

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「NieR:Automata」

 

この作品には謎の多いストーリーや個性豊かなキャラクター、そして思わず立ち止まってしまうような終末世界の風景など魅力的な要素に溢れている。しかし、ゲームをプレイする中で最も強く私の印象に残ったものは哲学者の名前を冠した機械生命体の存在だった。

 

パスカル」「ヘーゲル」「エンゲルス」「マルクス」「ボーヴォワール」「キルケゴール」「ロウシ」「ソウシ」そして「サルトル」。思いつく限りでもこのような面々が機械生命体として登場する。

 

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ただ機械生命体の「パスカル」が自分の主著であるはずのパンセを読んだことがなかったり、「ボーヴォワール」がサルトルとの恋愛部分だけピックアップされていたりと、哲学者の名前がそのまま機械生命体の内実を表しているわけではない。

 

しかし、その哲学者たちの思想がゲームのストーリーに見え隠れする瞬間がある。

 

この記事ではそのような哲学者たちの思想がどのような形で「NieR Automata」のストーリと呼応しているのか、という部分を見ていく。当然ネタバレはある。また私は偉そうに語っているが哲学に関して浅学甚だしいので間違った見解が含まれる可能性があります。

 

またこの記事を読む前にIGN JAPANの記事を読んでいただけると文脈が共有できて良いと思う。これはAutomataの問いかけが実存主義的なものであるという内容で、この記事ではその主張を支持している。

jp.ign.com

 

 実存主義とは

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上に挙げた記事の内容の繰り返しのようになってしまうが、そもそも実存主義とは何だろうか。まず初めに実存主義とは歴史的な観点から見るとかなり新しい思想である、ということが言える。私の独断と偏見による西洋哲学史図の中で実存主義を位置づけるとしたら以下のようになる。

 

自然哲学

プラトン(イデア論)

中世哲学

カント

ドイツ観念論*1

 ↓

終戦(1945年)

実存主義

 

このようにNier Automataでことさら強調される実存主義とは様々な思想や世界大戦のような現実の出来事を通過する中で出てきた思想である。このゲームでも登場したパスカルヘーゲルの思想を通り越して出てきた思想、それが実存主義だと言うことができる。それではその具体的な内容とはどのようなものなのだろうか。

 

実存主義(じつぞんしゅぎ、フランス語existentialisme英語existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。ーWikipedia 実存主義 2021/05/29 17:43閲覧

 

「 本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想」。これだけではよくわからない。

 

実存主義の理解には「本質存在」と「現実存在」という二つの存在の二項対立が鍵となる。この二つの言葉は哲学の歴史において異なる言葉で何度も登場する。

 

プラトンはこの二つの存在をイデアイデアの似像と呼び、カントは物自体と現象という呼び方をする。しかし、この言葉を日常的な言葉で表すと「理想」と「現実」という非常に分かりやすいものになる。

 

つまり実存主義とはこれまでの哲学で考えられた「イデア」や「物自体」という理想よりも、今ここにある現実を考えることを重視した思想と理解することができる。

 

Automataの世界は「人間のために戦う」という目的(理想)がもろくも打ち破られた世界で、どのように生きていくのかという問いを突き付ける実存主義的なものと言える。これはプレイヤーの操作するアンドロイドたちに対する問いであると共に、終戦を迎えて国家や人間理性、あるいは宗教などの人生の目的を無邪気に信じられずアイデンティティクライシスに直面した私たちプレイヤーへの問いでもある。

 

 立ちふさがる過去の哲学者たち

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パスカルエンゲルスが殴り合う名シーン

 

ここで気がつくのがプレイヤーの前に敵として立ちふさがる機械生命体たちが(ボーヴォワールを除いて)すべてサルトルの擁する実存主義よりも古い哲学者の名を持つということだ。

 

これはあたかも過去の思想が時代の変化によって淘汰され更新されてきた様を表しているようである。表面的には実存主義を考えざるを得ないプレイヤー側がただ過去の哲学者を破壊しているようにしか見えないが、一部の表現にはその思想的な格闘が見られる。

 

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例えば友好的な機械生命体であるパスカルは、ゲーム内では知識というものを重視し子供の機械生命体に教育を施している。しかし、その教育の結果「怖い」という感情を自覚した子供たちは恐怖のあまり集団自殺を行ってしまう。そのショックからパスカルは自身の記憶を消去することによって罪悪感から逃れようとする。役に立つと信じていた知識も記憶と共に消え去っていく。ここでは(近代)理性や知識の単純な称揚を批判し、その毒性あるいは敗北が表現されている。

 

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また「死に至る病」で有名なキルケゴールは、この作品では「みんなで死んで神になる」と繰り返す宗教の教祖として登場する。*2集団自殺という行動はオウム真理教ナチスを思い出させ、宗教という権威に対して疑いの目が向けられている。

 

さらに機械生命体に宿った自我を倒す場面では明らかに自我の弁証法が示唆されている。弁証法とはある異なる二つの意見がぶつかり合い、その結果どちらとも異なる意見が生まれる形式のようなものだ。この方法論はそれぞれ異なる形ではあるが特にカント以降の哲学(あるいは形而上学)で共有された主流な方法だ。*3

 

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カント以降の哲学者がこぞって形式化して用いたこの弁証法が機械生命体の自我を倒すために用いられる。本来一つであったはずの自我が「アンドロイドを殺すべきだ」という自我と「アンドロイドを殺すべきではない」という自我の、二つの異なる意見を持つ自我に分裂する。そこで実際に生まれたのは哲学者たちが考えたような「どちらの意見も汲んだ新たな自我」ではなく、互いが互いを否定しあう「まるで人間のような戦争をする自我」であったのは皮肉が過ぎる。

 

真理に向かっていくための知の格闘としての弁証法がここでは戦争の契機として捉えられる。知の発展と戦争が重なるという、この指摘は思想的に新たな観点だと言えるだろう。

 

以上のように人間理性、宗教、そして弁証法という、実存主義以前の思想の否定がゲーム内で展開される。もちろん個々の思想を深く読み取ったうえで批判しているわけではないので、思想の理解に関して穴はあるもののここまで見事に全否定されてしまうとかえって気持ちがいい。

 

理性あるいは宗教というのは実存主義に至るまで人類が正しいと信じ、人生の目的を求めたものだった。現実世界でそれらが単なる神話であったことが暴露される一方で、NieRではそれが哲学者の名を借りた生命体の敗北として表現される。

 

知識や宗教という理想をかかげる哲学者を破壊しきった、その後に「この世界はこんなにも美しかったのか」と現実に目を向け、新たに生きようとするエンドには、我々の現実にも実存主義しか選択肢は残っていない、とでも言いたげなこの作品の主張が見えるようである。

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 結論 

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「NieR Automata」は過去の哲学者をなぎ倒し、最後に実存主義的な問いをプレイヤーに突きつけるという哲学史をなぞるようなゲームであった、というのがこの記事での私の総評です。

 

実存主義をあまりよく思っておらず、ドイツ観念論ワッショイな私からしてみれば過去の思想があまりにも簡単に排除されていく様は、悲しくもあり爽快でもありました。なにより、そう読めるようにこの作品が作られているという事実が面白いです。 

 

パスカルという名前を冠しながら最後まで『パンセ』を読むことがなかった彼に代わって、我々プレイヤーがこの本を読むことをお勧めしたい。最後にパンセの有名な一節を引用して終わります。

 

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい、宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。

 

だから、われわれの尊厳のすべては考えることにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない時間や空間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

 

ー『パンセ』 中公文庫*4

*1:ドイツ観念論というくくりをカントに始まり、ヘーゲルで終わる一本の思想的発展と見る見方は近年の研究では否定されている。ここではカントに端を発し、ヘーゲルで終わる哲学者たちの時代的なくくりとしてこの語を使う。

*2:気をつけたいのが史実のキルケゴールは自殺に至る現世否定の思想を展開したわけではないということだ。むしろ実存主義の祖として現実に向き合うことを重視している。

*3:一般的にはヘーゲル弁証法が主流とされる。しかし、ヘーゲル弁証法が二つの異なる意見から矛盾のない一つの意見が生まれると考える一方で、フィヒテにおける弁証法は互いの矛盾する性質を保ったまま一つの新たな意見になると考える。このように両者の弁証法の性質はかなり異なる。ここでは方法論として見る限りは同じと考えても支障ない。

*4:ここにきて過去の哲学者として解釈されてきたはずのパスカルの言葉に、現実を重視する実存主義的な性質を読み取れることに気がつく。思想の解釈の更新もまた哲学であり、それを喚起させるNieR Automataは素晴らしい。