Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

DDLC 直近の感想

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ここでは自分がDDLCをプレイし終わった直後の感想とプレイ中に感じたことを書き散らす。ネタバレに至るかは判断しかねるが未プレイの人間は読まないように。

・気に入った単語を選択しキャラクターの好感度を上げるパートで、感性の赴くまま選んだところYuriの好みに近いところがあったようで、Yuriルートで物語が動き出した。登校と下校を共にするSayoriに「私とYuriどちらと下校するのか」と問われたときは5分ほど悩みました。

ゲームの流れでいうとYuriが完全に優勢であり、彼女の魅力もゲーム側からどんどん提供されていました。それでも選択を迷ったのは、彼女らの詩の美しさにあったのだと今は思います。文体は違えど、どれも知的で見た目ではない人間としての魅力の発露を私たちは感じたのではないでしょうか。

日曜日の一日デートの前にSayoriに秘密を打ち明けられ呆然としました。そしてYuriとのデートも上の空にSayoriに告白をいたしました。親友としてではなく。

・プレイした方は、ご存じでしょうがここから我々プレイヤーにとっての地獄が始まります。Sayoriがいなくなった世界で「私たち」は何かが崩壊したゲームをさ迷い歩きます。

ここで告白しておきたいのが、自分は今までノベルゲームというものをゲームという媒体にカテゴライズすることには否定的でした。なぜならゲームとはプレイヤーの働きかけによって任意に動くものであって、ただページを捲るといった選択肢に乏しい行為にはその積極性が見られないからです。この考えは今でも変わっていませんが、DDLCのゲームプレイ、とりわけホラー要素はゲームならではのものでした。

なぜならプレイヤーが歩くその世界は、ほかでもないプレイヤーの選択肢によって作られた(と思わされている)世界だからです。テキストを進めるEnterキーに、1週目のそれとはまったく異なる意味が込められていることに気が付いただろうか?

・主人公が初対面の麗しい女性の名前を呼び捨てで呼ぶことに違和感を覚えた。新入生が大学サークルで覚えるそれと同じだ。文化圏の違いか。

・(YuriかSayoriを選ぶときに思ったこと)幼馴染という特性を持つキャラクターと対峙したときに感じる「主人公」と「プレイヤー」のコンテクストの違いによる壁は厚い。「主人公」はいままでずっと一緒にいたかもしれないが「プレイヤー」は違うんだよお。

・ネタばらしをされた後であってもホラー要素による精神的ダメージは計り知れない。

・もしあなたがMonikaによって、ほかのキャラクターがプログラムであることをバラされたのちに、彼女らに感じた好意を低く評価したのならそれは間違いである。唯物論的、機械論的世界観を受け入れ、極限にまで推し進めればMonikaと彼女ら、もっと言えばぼくたちも、本質的には彼女たちと何ら変わらない構造をしているのだから。だからあなたは堂々とSayori推しであると世間に表明しても構わない。