Game Mediation

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『沙耶の唄』 沙耶の愛

沙耶の唄』は2003年発売の、美少女ゲーム、ADV、アダルトゲーム。

 

CROSS†CHANNEL』に続いて『沙耶の唄』をプレイ。偶然にも両作品ともに2003年発売の作品。Windows11でも正常に遊べました。

 

主人公とプレイヤーの立場の重なり

プレイヤーは最初の約二時間にわたって、知覚に異常をきたした主人公・匂坂郁紀の視点を借りて物語を読み解くことになる。人は内臓の塊のような化け物に変わり果て、最悪なことにその感触や声、臭いさえも視覚に基づいた醜悪な感覚で伝えられる。

 

そんな中で沙耶という謎の少女だけが醜い世界で一人美しいものとして映る。主人公にとってこの少女は唯一の生きる希望として君臨し、沙耶もまた主人公を唯一の相手として認めている。

 

しかし、ここでプレイヤーには新たな視点が与えられる。知覚が通常通り働いているマジョリティの視点だ。

主人公からすれば沙耶は可憐で美しい唯一心を許せる存在だが、マジョリティからすれば沙耶は生存を脅かす醜い存在に映る。このまったく相いれない二つの視点を与えられることによってプレイヤーは一見主人公の立場との重なりを失うように思える。

 

しかし、「主人公が事故にあう以前はマジョリティの知覚を有していたこと」、また「自身が異常な知覚を持っているだけで世界それ自体は変わっていないこと」の二つを自覚していることを合わせて考えると、主人公は知覚異常の視点とマジョリティの視点の二つを獲得したプレイヤーの立場と重なっていると考えることができる。

 

そしてプレイヤーと主人公の立場の重なりは「美しかった以前の世界」と「醜いながらも沙耶がいる世界」のどちらを選ぶのか、という選択によって完全なものとなる。プレイヤーは二つの世界の醜さと美しさを矢継ぎ早に見せられ、そのどちらかを自由に選ぶ権利を与えられる。プレイヤーと主人公の立場が重なり、そして未来さえも重なる。

後述するがこの選択肢を提示された時点で主人公(そしてプレイヤー)の純愛への道はすでに閉ざされていると考える。

 

主人公の愛と沙耶の純愛

沙耶の唄』という作品は純愛を描いたものと呼ばれている。それはおそらく「開花エンド」と呼ばれるエンディングの中で沙耶が自らの命を犠牲に、沙耶という存在それ自体を世界に感染させた自己犠牲を指して言われているのだと思う。

 

しかし、私はそこに至るまでの沙耶の選択と思惑に純愛を見たい。この視点によって、沙耶の純愛に完全に対応するだけの愛を主人公、そしてプレイヤーが持ち合わせていなかったことに気が付き、沙耶の愛にただただ驚嘆させられるのである。

 

プレイヤーと主人公は「開花エンド」において「美しかった以前の世界」と「醜いながらも沙耶がいる世界」の中から「醜いながらも沙耶がいる世界」を選んでいる。これは一見、自らの健全な世界を切り離してでも沙耶を選ぶ愛のある選択のように思える。

 

しかし、この選択肢にはカッコがつかざるをえない。それは沙耶が「美しく見える場合に限る」というものだ。主人公は沙耶が普通の知覚を有している人間には醜く見える、という事実を知っている。これは逆に言えば醜い化け物に見えるものが実は普通の人間であることも知っていることになる。

 

それでも沙耶を愛し、人間を躊躇なく殺すのは結局「自分にとってそれが美しいから/醜いから」だ。ここで主人公にとっての「世界」という概念には決定的なヒビが入っている。「世界」には正しい色や形があって、それがそのまま自分の視界に広がっているという無邪気で絶対的な「世界」はもろくも崩れ去っている。

 

「世界」とは実は相対的なもので色も形も人によって違うように見えていることを疑えない。今この瞬間に握っている手さえも本当に存在するのかわからない。そんな絶望的に相対的で、方法論的懐疑のような世界。それが主人公、そしてプレイヤーの世界に他ならない。

 

それは沙耶が主人公とプレイヤーに問いかけてきた世界の選択の提示によって決定的となってしまった。ここでプレイヤーと主人公はその立場を重ね合わせられるだけでなく「世界は選択可能である」という世界の相対主義化を施されていたのである。

プレイヤーと主人公の沙耶への愛はこの相対化された世界でしか成立しえない。例えば主人公の知覚異常が突然なくなり、マジョリティの視点を獲得したとする。そうすると主人公は沙耶を見て「醜いから」殺すだろう。なぜなら主人公が人を殺すのもまた「醜いから」に過ぎないからだ。

 

一方で沙耶の愛はこれとは異なる。主人公が自分の視点で世界を選んだのに対して、沙耶は主人公の視点を軸に世界を選び取ったからだ。主人公の相対的だった世界を感染させることで、絶対的なものにした。自分の視点でしか世界を構築しえなかった主人公とプレイヤーには思いもよらなかった、他者の視点の世界という第三の選択肢。これを沙耶は苦もなく選び取ったのだ。

 

「種は、もちろん草の種だからね。
その気になって頑張れば、砂漠を砂漠じゃなくしてしまえる。
ただ一粒だけの種でも、もしかしたら、頑張ろうって思うようになるかもしれない。
頑張って育って増えて、いつかこの土地が
一面のタンポポ畑になるまで頑張ろうってそう思うかもしれない。
そんな風にタンポポの種が心を決めるとしたら、どんなときだと思う?」
「・・・・・・それは?」
沙耶は優しく微笑んで、僕の頬に手を差し伸べた。
「それはね、その砂漠に――たった一人だけでも――
花を愛してくれる人がいるって知ったとき。
タンポポの花は綺麗だね、って、種に話しかけてくれたとき」

 

沙耶は沙耶が美しく映る「主人公の世界」を選んだ。この結論は自己犠牲という情緒的な要素を抜きにしても尊い。沙耶は自分の目では確認できない主人公の世界をそれでも選び取ったのだから。『沙耶の唄』を純愛と形容しうるのは、まさにこの「相手の視点を軸に尊重する」という世界の相対化を保留しながらも、プライベートな空間において絶対的な世界を確保する努力にあると思うのだ。

 

蛇足

しかし、そのプライベートな空間が世界全体にわたるというのが『沙耶の唄』ならびにメリーバッドエンド作品の面白い点でもあり、限界でもあると思う。結局沙耶と主人公は「二人のマイノリティ」という多様性に収まることはできず、「二人で一つの世界」というマジョリティの排除、相対主義から絶対主義への回帰に落ち着いてしまうからだ。

 

沙耶が主人公の世界を選び取って個として死んでいくのも、見ようによっては他者の視点に自分の全てを預ける弱さということもできる。本稿ではこの沙耶の弱さを、視点のレイヤーを一枚破って他者の視点を看取する強さと捉えているが、これは本来背中合わせのものだろう。

 

それでも沙耶の選択を強さの証と思いたいのは、主人公である匂坂郁紀としてプレイヤーがこの世界を生き、短い時間ながらも沙耶と愛を交し合ったからに尽きるのではないかと思う。それがゲームのインタラクションの作用であり、ひいては性行為を描写可能なエロゲーという媒体の情緒的な作用なのではないか、と無粋ながらも考えてしまう。