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『Blasphemous』の世界観を考える 堕ちたキリスト教

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 ソウルライク2Dアクション作品である『Blasphemous』は日本語版の評判を聞く限り、ストーリーが非常に難解で理解不能なものという印象を受ける。自分もクリアはしたもののストーリーに対する明瞭な理解を得ることはできなかった。

しかし、その原因は「贖罪」や「巡礼」といった宗教的な用語が飛び交う世界観への我々の知識不足が大きな原因となっているように思われる。

そこでこの記事では『Blasphemous』のストーリーを直接解説するのではなく、それを取り巻く宗教的な世界観を私の拙いキリスト教理解になぞって一つ一つ並べていこうと思う。これでこの作品のぼんやりとした輪郭くらいは掴めるかもしれない。

※True Endへの言及アリ

堕ちたキリスト教のモチーフ

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 ↑十字架ではなく剣の柄には磔にされたやせ細った男性が

 この世界は「奇蹟」という謎の力によって半ば滅びかけている。「奇蹟」は天罰という超自然的な力らしく人間の数は激減し、残った人たちも飢えや病に苦しんでいます。

天罰とは基本的に人々が本来、恐れ敬わなければならない神に対して不信心になってしまう時に与えられる。しかし、この世界の住人は神を信じていないということはなく、また神を信じなくなる原因としての科学技術の発達も無いように見える。

そうなると天罰の原因は不信心ではなく本来の信仰の道から外れた、間違った信仰によって生じていると考えられる。つまり、この世界の住人が「間違った宗教を信仰している」と考えることができるのだ。そして、その「間違った宗教」に対する「正しい宗教」とは「キリスト教」に他ならない。

反転した洗足式

 画像は人々から信仰を受ける偽の聖人が主人公に語りかける場面である。偽の聖人はイエス磔刑にされる前日の最後の晩餐において行われた足洗式のポーズをとっている。

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 ↑パオロ・ヴェロネーゼ作 1580年 中央に描かれた跪いている人物がイエス

しかし、キリスト教の洗足式と決定的に異なるのは、足を洗われる人物である。洗足式では本来信仰を受けるはずのイエスが弟子たちの足を洗う。しかし、『Blasphemous』において信仰の対象となる聖人が信仰者によって足を洗われる全く逆の構図を取る。

血の洗礼

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 主人公は最初のボスを倒した時その奇妙にとんがった仮面に敵の血を注ぎ、そのまま顔に血をかぶる。これはキリスト教における洗礼の悪しきパロディーと考えられる。

本来の洗礼は水の中に体を沈めて清めたり、水をかけてもらい心身を清める儀式として機能する。一方で『Blasphemous』のそれは化け物の血、といういわゆる穢れ(ケガレ)をまとったものを被る行為であり、好対照を示すものといえる。

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 ↑ヨハネによる洗礼を受けるイエスの様子 ペルジーノ作 1481-83年

KKK もしくは ナサレノ

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 KKKアメリカに端を発する秘密結社。活動時期によって交遊会であったり、白人至上主義を掲げる政治団体であったりするがここでは白人以外を迫害した組織を指すことにする。

KKKの白人至上主義はキリスト教原理主義という差別の蔓延する、ある種の「堕ちたキリスト教」であり、『Blasphemous』の宗教観とマッチするのではないだろうか。とんがった頭や顔を覆いつくす主人公の仮面はKKKの衣装に相当似ている。

 一方でKKKの服装とよく似た格好がスペインのイースターにあたる伝統行事、セマナ・サンタで見られる。

「ナサレノス」または「ペニテンテス」と呼ばれるそれは受難者、すなわち磔にされたキリストを意味するらしい。『Blasphemous』の主人公は贖罪のための巡礼をしているのでこちらの線も捨てきれない。

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 ↑スペインのイースター「セマナ・サンタ」に現れるナサレノ(受難者)たち

聖人の自殺

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 主人公は今作のTrue Endにおいて玉座に就く教父を殺し、玉座の上で自らの胸を剣で突き刺し、植物となる。作中では「懺悔者は新たな教父となり、最後の奇蹟の息子となった」(He is the new Father and the last son of the Miracle. )。

なぜ主人公は現在の教父を殺して新たな教父になるだけに止まらず自殺をしたのだろうか。それは生きている教父が存在する限り、その地位を巡って争いが絶えることがないからだ。だからこそ主人公は「死せる教父」となり争いのループを止めたのである。

しかし、キリスト教において自殺は大罪として扱われる。神によって与えられた命を粗末にするのは、被造物として生意気であるし、不信心であると言えるかもしれない。実はキリスト教において自殺が大罪であるとは厳密には定められていないらしいが(7つの大罪に入ってないし)、自殺した人間の葬儀を行わない、といった事からも分かるように世俗的・道徳的なタブーとして扱われたことは確かである。

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だが『Blasphemous』において自殺は正しいことのように描かれている。キリスト教に限らず世界中の宗教では聖人の遺体は不朽体といって、その名の通り死後も朽ちることがない肉体であると言い伝えられる。『カラマーゾフの兄弟』でも「聖人は死んでも腐臭を放たない」などと言われていた。

これらの伝承をなぞるように主人公の遺体は朽ちることなく、生命活動を続ける植物となる。これは彼が聖人として認められた証であり、贖罪としての自殺を正しいこととすることに他ならない。この点に反キリスト教的要素を見るのは少し強引だろうか。

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しかし、イエスが処刑後3日目に復活して元気にご飯を食べたのと対照的に物言わぬ植物になった『Blasphemous』の主人公は全く違うベクトルの聖人であるということはできる。

結語

以上「反転した洗足式」「血の洗礼」「KKK もしくは ナサレノ」「聖人の自殺」という4点に『Blasphemous』の世界の反キリスト的要素を見ていった。これらの要素からなる「堕ちたキリスト教」への転落がこの世界の災厄の原因であると私は考える。これ以外の宗教的モチーフは作品内でさらに見られるだろうし、僕の解釈が見当違いであるということもあるだろう。

是非『Blasphemous』を実際に手に取って遊び自身の解釈を構築してみてはいかがだろうか。