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Hellblade Senua's Sacrifice 現実、神話、精神病

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『Hellblade: Senua's Sacrifice』は紀元前の時代を舞台とする精神病体験アクションである。主人公のセヌアは青の戦化粧をし、髪を灰で固めるケルト人。ヴァイキングの侵略により故郷を焼かれ、恋人を残虐な処刑方で殺されたことによって精神病に罹る。

精神病には大別して「幻覚」と「妄想」の2つの症状がある。幻覚は対象のない知覚を生み出し、妄想は関連性の薄い事物を脅迫的に結びつける思い込みを生む。この2つが相互に関わって現実世界にはありえない独自のファンタジー世界を作り出す。セヌアの場合このファンタジーは「神に奪われた恋人の魂を私は地獄に行って取り戻さなければならない」という形をとる。

現実と精神病

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「地獄に赴かなければならない」というセヌアの精神病の世界は全く根拠を持たずに構築されたものではない。一つは恋人の殺され方、「血の鷲」と呼ばれる処刑方法にある。これは征服した地の人間を神々の生贄としてささげる意味をもつ。つまり、生贄にささげられた恋人の魂は現在神のもとに囚われていると考えられる。

もう一つは「責任」である。セヌアは何らかの事情で国を離れ、戻ってきたときには国も恋人もすべてを失っていた。仮にセヌアが国にいたとしても恋人もろとも殺されていたことは想像に難くないが、彼女は自身の不在を決定的な罪悪として認識する。

「恋人の魂は地獄にあり」、「その責任は私にある」。この2つの根拠があって初めてセヌアの世界は成り立っている。以降このファンタジーは現実にはまったく存在しない「幻覚」や「幻聴」によって補強され、セヌアにとっての確固たる現実と化す。この視点は精神病患者を現実から完全に切り離し、ただの「狂人」としてしまう立場に対して有効な反論となり得る。どんなに奇々怪々な世界を主張する人にもその立脚点には必ず現実の世界が関わっていると言える。精神病の世界が現実と地続きであるという認識は、精神病理解の第一歩といえる。

神話と精神病

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精神病をテーマにした作品に神話、それも遥か昔の北欧神話が登場するのはいったいどういうことだろう。神話とはまだ科学が存在しなかった時代の「世界を合理的に説明しよう」という試みであった。ソールは太陽の神、ヘルは死者の国の神、オーディンは戦争の神と言うように自然現象から人間の営みまで全てが職能神という形で説明された。しかし、そこで描かれた神々は殺し、殺され、騙し騙されあうという一神教からすれば恐ろしく不完全な性格を持ったものとして描かれた。

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比較言語学者のマックス・ミュラー(1823-1900)は神話を人間精神の一種の病気であるとした。ミュラーは人間の言語、特に神話が紡がれた古代の言語を宗教的な概念を示すのに甚だ不完全であって、どうしても比喩を使わざるを得ない欠陥品であったとする。

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その比喩に使われたモデルが実は人間である。世界を司る最高の神がなぜ妻に怒り、子供に暴行し、神々同士で欺きあうのか。それは人間の性質を反映しているからだ。精神病と神話とは一見縁遠い存在のように思われるが、神話を人間の不完全さが表現されたものと考える限り、非常に近いものとなってくる。神話は人間の狂気を神を媒介に表現したものと言える。

ここには人間と精神病の長い長い付き合いが見て取れる。精神病とは文明が高度に発達した現代のみで起こりうる現象ではないか、という印象がいかに偏った見解だったかが理解できる。

終わりに

この記事では「現実と精神病」、「神話と精神病」という2つの形で精神病の性質を描いたが、当事者の体験を理解するのには到底及ばない。これは精神病の外的な情報であって本質の理解には及ばない。私は精神病に羅漢したことは少なくとも主観的にはなく、当事者性が圧倒的に足らないからだ。

しかし、Hellbladeは違う。精神病の当事者、専門家が意見を出し合い時には自分の体験をそのままゲームプレイに反映させている。この記事は単なる情報であるがゲームプレイは体験である。もし精神病を体験したい―もしそれが単なる知的好奇心に依るものであっても―というのならばHellbladeをプレイするのが一番良い。