Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

Immortality 不死性の条件

※この記事にはネタバレが含まれます

『Immortality』から受けた衝撃を引きずったままメルカリで以前から気になっていたDVDを購入した。黒沢清の『降霊』だ。なんでも「見える人」からの評判が良いらしく、映画に映る幽霊は本物に近いらしい。

 

届いたDVDを再生しラスト6分に差し掛かったころ、ディスクの傷が原因で映像は進まなくなってしまった。映像に記録するという行為は一見、人間の寿命を超えて後世に作品を残す、という意味で無限性に接続するものに思える。そんな思いはDVDの傷という即物的なものによってあっさりと否定された*1

 

何が言いたいのかというと映像という無限性や永続性に接続されたように見えるものも、DVDなどの映像媒体という物理的で有限なものに規定されているのであって、その無限性は思いのほか脆いということだ。

 

しかし、そこに映っていた幽霊はどうだろう。幽霊は死という生物の有限性を規定する壁を超越し、有限性を克服しているように思える。幽霊はImmortalityと接続しているといえるかもしれない。

 

それでは『Immortality』がその題名に冠する不死性は何にかかっているのだろうか。一つ考えられるのはその映像だ。『Immortality』の映像はDVDとは違ってコンピューターソフトに保存されたものだ。データとしての映像はDVDなどの媒体を必要とせずPC上で再生することができることから、より永続性に近い存在ということができるだろう。

しかし、それでも映像を再生するにはPCという物理的な媒体が必要なことは変わらない。これでは完全な無限性を達成しているとはいいがたい。

 

それでは大方予想されているように『Immortality』の不死性は「この存在」にかかっているのだろうか?プレイヤーはフィルムの中に紛れ込む「この存在」を『降霊』の幽霊のようにめざとく見つけ出し、その境遇や不死性を語るのを追うことになる。

ストレートに不死性につながる「この存在」を『Immortality』という題名のゆえんと断定していいのだろうか?この疑問に対する私の答えは「Yes」であり「No」でもある。

 

「Yes」である理由は「この存在」は実際に不死であったと証言しているからだ。そして「No」である理由は「この存在」が不死性を失っているからだ。

 

この作品のImmortalityがどこにかかっているのかを考えるのに肝心なのは「この存在」がなぜ不死性を失ったのか、という理由にある。ここからはすべてのフィルムを見ていない私の純粋な考察と妄想になる。事実誤認が含まれている可能性がある。

 

第一に「この存在」を含むすべての存在はそれ単体では「不死」の状態を実現できないと考える。これは「なにかを認識した時はじめて、そのなにかは存在する」という存在論の考え方だ。

 

作中で「この存在」は二人いて、二人はお互いを認識しあうことで「不死性」を保っていた。しかし、「この存在」の片方はもう片方と離れてしまった。このままでは不死性を維持できない「この存在」はマリッサ・マーセルという女優となることで、観客という大勢の「認識するもの」を生み出し、その不死性を保とうとした。しかし、そこで実現される「不死」とは以前のような永遠の生ではなく、自分が死んだ後も自分以外に認識され続けるという意味での「不死」だった。

 

これが『Immortality』で展開されるストーリーではないかと考えている。

 

ここで肝心なのは「不死性」とは「認識するもの」によって初めて現れる、という原則だ。つまり、題名のImmortalityは、映像や「この存在」単体にではなく、第三者に認識される映像や「この存在」にかかっていると言うことができるのだ。

 

これは作中の主要なモチーフである映画と観客の関係と重なる。観客がいなければ映画はその存在すら許されないものなのである。だからこそ私たちプレイヤーは『Immortality』をプレイすることを通して『アンブロシオ』『ミンスキー』という映画を存在させ、マリッサ・マーセルという名の「この存在」の不死性を顕現させることができた。

 

DVDの傷という有限性が映像の無限性を破壊する一方で、「プレイヤー」という有限の存在があって初めて『Immortality』の「不死性」は実現された、ということができる。

*1:一方でこれは尺度の問題だということもできる。人間の一生を一つの世界と考えるのならば、その一生を超える持続性を永遠と”形容”することも不可能ではないだろう。今回のDVDは30年も持ってないわけだが