Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

自己矛盾を孕む名作 『CROSS†CHANNEL』

CROSS†CHANNEL』は2003年発売の、美少女ゲーム、ADV、アダルトゲーム。

 

2018年に『ドキドキ文芸部』に触れたことでビジュアルノベルへの抵抗が薄れ、『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』や『q.u.q.』、『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』などをプレイした流れで名作と名高いこの作品をプレイしました。プレイした動機としては2000年代のオタク文化と、18禁という制約が表現にどのように影響するのか、ということに興味があったためです。

 

結論としては『CROSS†CHANNEL』の18禁シーンそのものには大きな意義があったとは言えない。しかし性行為がこの作品に確かに存在しているという事実は(たとえその表現の量が不自然に偏っていたとしても)作品世界の中で現実世界の主題を描くという試みに妙な現実感をまとわせていたように思う。

 

キャラクターに肉体があり、その肉体は物理的に死に、殺され、犯し、犯され得るという可能性が排除されていない。このように物理的には現実的でありながら、世界は滅亡しているというファンタジー展開が繰り広げられる。こんなジャンルは今まで触れてこなかった。

 

この記事を書いているのは、全く新しいものに触れたという衝撃を残しておきたかった、という事のほかに、2023年に生きる人間が20年前に生まれた『CROSS†CHANNEL』をプレイして何を思うのかという事を記録したかったためです。ネタバレ配慮はありません。

 

主人公・黒須 太一のセクハラ行為には触れざるを得ない。太一は女性キャラクターに執拗にセクハラ行為を行う。時代性では片づけられない犯罪行為だ。あまりにも不快だった。そしてそのセクハラ行為には一応の裏付けが行われる。

 

これがまたお粗末だ。セクハラに抵抗するその反応をもって相手を中身のある人間とみなす、という身勝手で歪な認識は「怪物」だと言える。『CROSS†CHANNEL』では、しかし、この行為を後述する黒須の「怪物性」とは区別して「人間性」に基づくものとして描く。

 

だが女性にしか行われないという点で主人公(異性愛者)の「人間に対する試し行為」は性欲に基づいているといえる。性欲に支配されたこの加害行為はゲームの言うように「人間性」には基づかず、「怪物性」に基づくと言わざるを得ない。ここは明確に反論させてもらう。

 

一方で『CROSS†CHANNEL』には当時の、いわゆる鬼畜ゲームというジャンルに対する批判的な姿勢を読み取ることができる。それは特に霧のエピソードに表れている。主人公の黒須は血を見たり昂ったりすると理性の制御が揺らぎ、他人に危害を加える状態になる。

 

その状態の主人公を霧というキャラクターを通して作品は「怪物」と称する。主人公の太一も自身の怪物性を自覚して、自己批判を繰り広げる。鬼畜ゲームの主人公の加害性を仮託したような主人公の「怪物性」はここで徹底的に批判される。(セクハラも加害であるという事を踏まえればどちらも批判されるべきことであるのは明白だが)

 

STEINS;GATE』などのループものに触れ、そのループする当事者と周りの人間との「意識のズレ」というものに心を動かされてきた。しかし、『CROSS†CHANNEL』にはそのような感傷的な要素は含まれず、ただ観測者としてのプレイヤーだけがループの全容を把握するという構造は新鮮だった。

 

またループの制約を受けない聖域の存在は、物語の前半においてはサスペンス展開を生み、後半では物語を締めくくる装置に変化する、など物語を動かすものとして上手く機能していて驚かされた。

 

CROSS†CHANNEL』で提示された人とのかかわり方というのは恐ろしく臆病なものに映った。見返りを求めない、依存しない、傷つけない、理解したと思わない。その消極性は消費者たる当時のオタクの反映であると同時に、現代の私たちのスタンスにも通じるところがある。そんな消極性の中でも私たちはどこかでクロスし、つながっているのだ、という作品の姿勢は、実際にはままならない現実が立ち塞がると知りながらも、心地よいものを感じた。

 

人との関わり方を矛盾を内包しながらも探し続ける名作、それが現代の自分から見た『CROSS†CHANNEL』でした。その形式上ゲーム実況で消費することや、普通にプレイする機会すら少ないジャンルです。当時の文化を色濃く反映した作品をプレイしたい人にお勧めです。