Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

ダンガンロンパ V3クリア直後の感想

分かりにくいパロディ

ここ3か月ほどで『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』『ダンガンロンパ3 -The End of 希望ヶ峰学園-』そして『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』を駆け抜けました。

 

ゲームの感想からは外れますがネタバレを踏むのではないか、という心配から解放された今の爽快感はかなりのものです。正直に言ってしまうと私がダンガンロンパシリーズをすごいスピードで駆け抜けたのはネタバレを踏む恐怖を無くすためであり、また2をクリアしてからはこの作品の他人の感想を読みたいというゲームそのものの文脈から外れた不純(?)な動機があったからです。

 

また流行りのコンテンツをリアルタイムに追うことのメリットを感じた期間でした。感想を読みに行こうとすると続編のネタバレを踏む可能性があってできなかったり、自分と同じ進行度の人が見つからなかったりで勝手に孤独を感じていました。

 

ここからは2、V3の感想を語りダンガンロンパシリーズそのものについて語っていこうと思います。なぜ2からなのかというとダンガンロンパというシリーズが常に前作の上書を試み、それを成功させているからです。2やV3をクリアした今の自分には初代ダンガンロンパの感想を書くことが非常に難しいのです。

 

V3をクリアした今の自分には2を語ることも正直難しいのですが、全作品やったうえで2が一番好きだったのでどうにか感想を書いていこうと思います。※ネタバレあり

 

スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園

ダンガンロンパについて俯瞰して語るとき、その内容は必然的に終盤の「この世界は結局何なのか」というネタバレに踏み込まざるを得なくなる。なぜならそれまでのパートは言ってしまえばロケーションと人物を変えただけの推理ゲームに過ぎないからだ。

 

そういった「単なる推理ゲーム」と明確に異なる視点を持ち出してくるからこそ、ダンガンロンパダンガンロンパである。2とV3を超えた私にはもはやそのようにしかこのシリーズを捉えることができなくなっている。しかし、この視点をとると『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』は最早ダンガンロンパではないという奇妙な結論を導いてしまう。『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』は2とV3を実現するための土台、つまり「単なる推理ゲーム」をひっくり返すために用意された「単なる推理ゲーム」だった。とでも言いたくなるような試み、それこそがダンガンロンパシリーズなのだ。

 

それでは2、V3と順を追ってその試みを振り返ってみたい。『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』における「単なる推理ゲーム」のひっくり返し、それは「この世界が実はゲームの世界だった」というものだ。V3のせいでインパクトというか、その意味自体も薄れてしまっているが、この事実は生き残ったキャラクターたちに大きな衝撃と絶望をもたらした。なぜなら自分たちが目指していた外の世界は半壊し、しかもその原因が自分にあると告げられたからだ。

 

与えられた選択肢を選び取ったところで自身が世界を破滅させた事実は消えず、このコロシアイの記憶も消えてしまう。主人公を支えてきたナナミはゲームの中だけの存在で現実に戻ってもナナミはいない……と、とにかく絶望的な状況が主人公たちに突き付けられる。

 

それでも希望をあきらめない理由は生きること、それ自体がナナミの存在を残すことにつながるから。希望は周りに伝わっていく。その希望の伝番こそがナナミの存在を証明するものだと信じたからだ。

 

これら一連の流れで優れていたのはその内容よりも演出、これにつきる。特に「この作品がゲーム内ゲームであることを示す」演出と「主人公の再起を促す」演出が度を越えて優れている。

 

下二つの画像は同じ場所を示している。上の画像は下の画像をワイヤーフレームで表示したものだ。ここではダンガンロンパの世界が”主人公にとって”ゲームの世界であることを示す場面だ。しかし、ダンガンロンパはもともとゲームとして作られている「プレイヤーにとってゲームに見えるゲーム」だ。

プレイヤーと主人公の間には深い断絶がある。プレイヤーにとってダンガンロンパはゲームの世界でも、主人公にとっては現実の世界なのだ。その現実の世界をゲームの世界にダウングレードする表現、それがこの場面の役割なのだ。コードの羅列やワイヤーフレームで表現された世界はこの世界を構築するものを分解して表示しているのであり、この世界が作られたものであることをことさら示している。この世界をただ”歩く”ことでプレイヤーだけでなく主人公でさえもこの世界がゲームであることを認識する。

 

この演出を受けて思い出したのが『Dear Esther』だ。これまでダンガンロンパの一人称の移動システムは捜査だったり、キャラクターに会いに行くための単なる過程として存在した。しかし、ここでは『Dear Esther』という最初のウォーキングシミュレーターと同じく「歩くこと」それ自体に「主人公がここはゲーム世界であるということを知る」という意味が与えられていた。

これは自分にとってかなり衝撃的な演出だった。PSPという携帯機でこの演出を、しかも推理ゲームというジャンルから浴びせられるとは全く想像していなかった。加えてDear Estherは前身のMOD版があるとはいえ『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』と同じ2012年に発売されていたという事実はもっと知られてもいいと思う。ネタバレ厳禁という作品の性質に加えて、単なるガラパゴス化の産物として過小評価されていると思う。

 

続いて「主人公の再起を促す」演出だ。これは初代にも似たようなものがあったが、プレイヤーだけでなく主人公さえもここがゲームの世界であると了承していながら、それでもゲームシステムにのっとってこの虚無のループを破壊するにくい演出だった。

ダンガンロンパにおいてプレイヤーと主人公は基本的に重なることがない。主人公の言動は制御できず、プレイヤーにとって彼はほかのキャラクターと同じく物語を進める装置に過ぎない。しかし、最後の演出においてプレイヤーと主人公の望みは完全に一致する。最後に希望を選ぶというプレイヤーと主人公の望みが一致するカタルシスは初代と共通していた。しかし、それこそV3が狙いを定めていたものでもあった。

 

ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期

『ミスト』みたいな展開作るやつ

2がゲーム内ゲームであるとすれば、V3は現実内ゲームだ。2はあくまで舞台がゲームというフィクションであったのに対して、V3はダンガンロンパそのものをフィクションと断じ、フィクションだからなんだ、と言ってのける。

 

しかし、自分にとって肝心だったのはフィクションと現実の二項対立ではなく、希望と絶望の二項対立だった。ダンガンロンパは初代で希望は負けないことを、2で希望は絶望と同じように伝番していくことを描いた。

 

だがV3は、希望と絶望の二項対立をドラマティックに演出することで何が犠牲にされてきたのか、そしてその構造に加担しているダンガンロンパを楽しむプレイヤーの姿を浮き彫りにした。ダンガンロンパを眼差す現実という一つ上のレイヤーを可視化することによって、希望と絶望の二項対立が「ニーズに沿ったもの」でしかないことを痛烈に批判し、その二択を跳ねのけることを選んだのだ。

これは殆どのプレイヤーにとって冷や水を浴びせられたような体験だろう。コンテンツとして楽しんでいたキャラクターに、私には人格があり人権がある、と言われたような気まずさがある。

 

また先ほどの「希望か絶望なのか」という二項対立の問いは、この二項対立の有害性を指摘されるに終始し、問いの答えは与えられない。

 

思うにこれはダンガンロンパV3と現実という二つの世界のぶつかり合いであり、異なる主張を持つ二つの人格のぶつかり合いだったのではないだろうか。だからキレイな落としどころはなく、遺恨は残り、そしてそれでも続いていく。どちらか一方の主張を押し通すのではなく、与えられた絶望と希望という二択をはねのける。結局それでいいのだと思う。なぜならゲームとは単なるフィクションではないから。フィクションは希望や絶望と同じように現実に伝番するのだから。

 

伝番し影響したのならフィクションと現実に明確な格の違いなど存在しないのだから。

 

以上V3をクリアした直後の感想でした。2の感想を書いているときはスラスラ文章をかけていましたが、V3について書こうとすると自分が混乱しているのがありありと自覚できました。また観念的な対象の二項対立を別の位相を加えて軽やかにすり替える様は現代哲学っぽくて愉快でした。