Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

オールドスクールって何だろう? それは本能的な衝動

王者の帰還“DOOM

2015615.jpgFPSの元祖、そしてオールドスクールFPSの金字塔と認識されている「DOOM」の新作が大々的に発表された。その暴力性は際立ったものでありゲーマー達はこぞって「王者の帰還」を祝福する雰囲気に包まれている。

それもそのはず。今回登場した新作DOOMは2004年に解き放たれたDOOMの名を冠したホラーゲーム「DOOM 3」なんかではなく長年遊ばれBrutal Doomなんていう媒体でしゃぶり続けられている正真正銘オールドスクールである本物の「DOOM」なのだから。

しかし待って欲しい。FPSの原点、暴力性の追求、グロイグロイアンドグロイ。それは構わないがいったい「オールドスクールFPS」って何なのだろうか。

オールドスクールFPSとされるもの

古くからは(まあオールドだし)Wolfenstein、DOOMQuakeなんかが挙げられる。最近の作品で言えばPainkillerに始まりSerious SamやRise of the Triadなんかが浮かんでくる。どれもこれも、そのゲームプレイを一目見ればオールドスクールな作品であることは自然と分かるだろう。しかし僕らは「オールドスクールって何?」と問われても「なんか、こう…カタルシス…」としか返答できない(ちょっとアホすぎるか)。これがかなり不思議で不可解な点だ。

Serious Sam 3

カタルシスカタルシスなんだよ!!!(ブチ切れ)

オールドスクールの持つイメージとファクト

ここではオールドスクール作品の持つイメージ(心象)とファクト(事実、実際の要素)を挙げ比較し我々の2つのオールドスクール感知システムを浮き彫りにしてゆこう。

まずイメージだが「撃ちまくる」 「グロい」 「単調」 とこんな所だろうか。個人的な見解も入っているかもしれないが限りなく一般的であるものを挙げた。


ではこれをファクト、実際の要素と照らし合わせて考えてみよう。まずは「撃ちまくる」。これは最もイメージしやすいオールドスクールの要素だろう、必須と言ってもいい。そして「グロい」。この2つの要素の組み合わせによって完成する「最も原点的な楽しさ」にオールドスクールを見出すのはもはや一般的な間隔を超え、本能的なものだろう。

よって1つ目の構造は「撃ちまくる」と「グロい」による「原点的、本能的楽しさ」 である。201408161519035a6_20150615230444507.jpg


次に「単調」である。確かに本当にオールドな作品は単調さで溢れている。特にWolfensteinなんかを今プレイするとなると、それこそ地獄のようなゲームプレイを強いられる(しかも無駄に高難度)。だがオールドスクール=単調というのは、語弊というか誤解があると思う。というのも昔の作品と言うのは技術的に単調にならざるを得なかったのだ。なるべくしてなった単調さを昇華したのが本当にオールドなFPSの凄いところなのである。

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しかし「オールドスクール」というのは聞けばゲーマーが群がるポジティブな言葉だ。そんな言葉に技術的な壁を理由だけに、こんなネガティブな印象を持つはずがない。そう、この言葉に「単調」というレッテルを貼り付けたのは他でもない「オールドスクールを名乗る現代の作品」である。彼らは「オールドスクール=単調」という都合のいい解釈に甘え駄作を作り続けた。当然ゲーマー達はこれを積極的に受け入れる。これが第2の構造オールドスクール=単調」の仕組みである。厳密に言えばこれはイメージに留まるものだ。

この観点から見ると近年発売された「Wolfenstin The New Order」はオールドスクールを名乗りながらも現代の技術をふんだんに使い尚且つ単調さを改善した素晴らしいオールドスクールFPSであった。


以上のことより我々の考えるオールドスクールと実際のそれとは多少、差が生じている。大きく分けて本能的な部分で感じるものと世論によって形成されたものがあったが真実は前者であった。よってオールドスクールは本能で感じるものである、という結論に至った。本当はもっと理性的な結論を出したかったのですが考えた結果がこれなのだから仕方がありません。

そしてみなさん喜んで欲しい。そうなると新作DOOMは紛れもない「オールドスクールFPS」だ!イエエエエイ。ただ「帰ってきた」というのはおかしい。今僕が見出したオールドスクールFPSは決してオールドな(古臭い)ものではないのだから。