Game Mediation

PCゲーム、3DCG、哲学など

DOOM(2016)を通してみるDOOM(1993~)

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個人的には地雷臭を感じ取っていたので購入するつもりは全くなかったのだが、このスピーディなプレイ動画を視聴してしまい購入に至った。


タイトル上では新DOOM→旧DOOMという流れになっているが記事の流れは逆になった。しかし相互的に「ほかのDOOM」というフィルターをかけて両作品を語っているので問題はないと思われる。

DOOMにおける閉所の役割

発売年数がかなり離れているため同じシリーズとして並べるのは少しはばかられるが数々のDOOM作品というのは閉鎖的なロケーションが想起される。

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極端なことを言ってしまうと“閉鎖的なロケーションでのFPS”といえばDOOMであるというイメージさえもある。四方を隙間のない壁で囲まれる、まるで迷路のようなステージを走り続ける。

現代のプレイヤーはそのプレイを“シンプルな暴力FPS”として肯定的に捉えるが、そこには中々自覚されない“閉所における”という要素が存在すると自分は考える。

この“閉所”という要素は“暴力”という要素を虫眼鏡のように拡大して私たちに届けてくれる。閉所であるからこそ「殺すべき敵が」「自分を殺す攻撃が」「殺した敵が」が最も映えるのだ。

DOOMのスタンス

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画像を見てもらえれば正に一目瞭然なのだが閉鎖感は皆無に思える。むしろ高低差の概念が追加され自分も敵も自由に移動可能な範囲が広がり開放感が出るまでに至っている。

しかし、これはこれで新たな楽しみを開拓していることには違いない。高所の敵をどのように自分と同じステージへ引きずり落とすかのか。低所の敵へどのように奇襲を仕掛けるのか。短距離戦をいかに安全かつダイナミックにこなすのか。遠距離にいる敵を多彩な武器Modや地形を利用して粉砕するのか。

つまり「選択肢の増加である」

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シンプルさゆえに評価されたDOOMシリーズに持ち込まれた多様性。それは私達が想像していたよりも容易に受け入れることができた。

シンプルゆえに映える暴力性があるのなら、派手で豪華な視覚的な効果によって、複雑で多様な方法によって生み出される暴力性があってもおかしくない。それは武器だけの話ではなくキルムーブという現代FPSならではの表現をもっても姿を現す。

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確かに大切に育んだ殺意をぶつけてぶち殺した敵の死体が砂のように消えたり、マップがあんまり広すぎて戦闘のテンポが損なわれたりと現時点で欠点は見られるが、まだまだ序盤を遊び終えた程度なのでここで評価を下すのは早急に思える。

とにかく今回はDOOM(2016)を通してDOOM(1993~)を見ることでその暴力性に「閉所」が貢献していることを発見し、逆にDOOM(1993~)を通してDOOM(2016)に「多様性による暴力性」を発見するに至った。